文学の背景ガイド

ジュール・ヴェルヌ『月世界旅行』にみる19世紀の天文学、物理学、そして宇宙旅行への想像力

Tags: ジュール・ヴェルヌ, 月世界旅行, 19世紀, 天文学, 物理学, サイエンス・フィクション

導入:19世紀の科学と宇宙への夢

ジュール・ヴェルヌの小説『月世界旅行』(原題:De la Terre à la Lune, Trajet direct en 97 heures 20 minutes)は、1865年に発表されたサイエンス・フィクションの古典です。アメリカ南北戦争終結後の時代を舞台に、ボルチモアの武器製造集団「ガンクラブ」が、巨大な大砲を使って人間を月に送り込もうとする audacious な計画を描いています。単なる荒唐無稽な物語ではなく、当時の科学技術と、それに続く宇宙への人類の夢を具体的に描いた点が、この作品の大きな魅力であり、文学史における重要性を示しています。

この記事では、『月世界旅行』の背景にある19世紀後半の天文学、物理学の知識、そして当時の技術水準に基づいた宇宙旅行の構想について解説します。これらの背景知識を理解することで、作品に描かれた計画のリアリティ(当時の読者にとっての)や、ヴェルヌが科学をどのように物語に取り込んだのかをより深く考察することが可能になります。

19世紀後半の天文学と物理学の知識

『月世界旅行』が発表された19世紀後半は、科学技術が飛躍的に発展した時代でした。特に天文学と物理学の分野で、宇宙に対する人類の理解は大きく進展していました。

天文学:精密な月面観測と軌道計算

19世紀には、望遠鏡の性能が向上し、月の表面の詳細な観測が可能になっていました。月のクレーター、山脈、平原といった地形がより正確にマッピングされ、その地理(Selenography)が研究されていました。作中、月の裏側への言及や、月面着陸地点の候補地(例えば、火口跡の名前)が出てくるのは、当時のこのような観測技術の進歩を反映しています。

また、天体の運動に関する物理学、特にニュートンの万有引力の法則に基づく軌道計算は確立されていました。惑星や衛星の運行、打ち上げられた物体の軌道計算といった概念は、当時の科学者や知識人にとって馴染みのあるものでした。ヴェルヌは作中で、月への到達に必要な速度や、大砲の角度、発射地点の選定(フロリダ州タンパ近郊の緯度に着目)について、当時の科学知識に基づいた詳細な議論を展開しています。

物理学:砲弾による宇宙飛行の課題

作品の根幹をなす「大砲で人間を月に打ち上げる」というアイデアは、当時の物理学知識に照らし合わせると、いくつかの大きな課題を伴いました。

  1. 脱出速度: 地球の引力圏から完全に脱出し、月に到達するためには、ある一定以上の速度(脱出速度、地球上では約11.2 km/s)が必要です。作中では、これに近い速度を得るための計算が描写されます。
  2. 砲弾の加速度(G): 巨大な大砲で短時間に脱出速度まで加速すると、乗員には極めて大きな加速度がかかります。これは「G」として知られるもので、人間が耐えられる限界をはるかに超えます。ヴェルヌはこの問題に触れてはいるものの、詳細な医学的・物理学的な考察は避けられています。
  3. 大気抵抗: 地球の大気圏を通過する際に、高速の物体は強烈な空気抵抗と摩擦熱を受けます。これは砲弾の速度を著しく低下させ、構造に深刻な損傷を与える可能性があります。
  4. 帰還方法: 月への到達だけでなく、地球への無事な帰還も大きな課題です。作中では、月の周回軌道に入り、特定のタイミングで地球へ落下するという方法が示唆されますが、これも当時の技術では極めて困難な構想でした。

ヴェルヌはこれらの物理的な問題のいくつかを認識しつつも、物語の推進力のためにはフィクションとしての飛躍を必要としました。しかし、彼がこれらの課題に触れ、具体的な数値(大砲のサイズ、火薬量、必要な速度など)を提示しようと試みたことは、当時の科学知識に対する彼の敬意と、物語に科学的なリアリティを与えようとする姿勢を示しています。

作品と科学知識の関連性

『月世界旅行』における科学知識は、単なる設定として存在するだけでなく、作品の登場人物、プロット、そしてテーマに深く関わっています。

ガンクラブと科学技術への信頼

作品の中心となる「ガンクラブ」は、南北戦争で使用されなかった兵器技術を平和的な、しかし壮大な目的に転用しようとする技術者集団です。彼らの行動は、19世紀後半に高まっていた科学技術への楽観的な信頼と、それを人類の進歩や偉業のために活用しようとする当時の精神を象徴しています。彼らの大胆な計画は、まさに「科学技術で不可能を可能にする」という当時の時代の空気感を反映したものです。

登場人物の科学的議論

主人公であるバルビケーン、アルダン、そして船に乗ることになるニコル大尉は、それぞれ異なる専門知識を持った人物として描かれ、作中で科学的・技術的な議論を交わします。必要な火薬の種類、大砲の材質、発射地点の選定、宇宙空間での生活、月の環境などに関する彼らの対話は、当時の科学的知見に基づいています。例えば、地球の自転を利用して初速を与えるために赤道に近いフロリダを発射地点とする決定や、無重力状態での物体の振る舞いに関する描写などは、ヴェルヌが収集した科学情報を物語に組み込んだ例です。

砲弾という技術選択

宇宙船ではなく「大砲から打ち出された砲弾」という手段を選択したことは、当時の技術レベルを考慮したヴェルヌの選択と言えます。ロケット技術はまだ黎明期であり、大規模な構造物を巨大なエネルギーで打ち出すという点では、当時の人々にとって「大砲」の方がイメージしやすく、既知の技術の延長線上にあったため、より説得力(当時の読者にとって)を持たせることができたと考えられます。

科学と想像力の融合

ヴェルヌは、当時の最新科学を綿密に調査しましたが、同時に大胆な想像力を駆使しました。前述の物理的な課題を物語のために乗り越えさせたこと、宇宙船内部での生活や月面の描写に想像力を加えたことなどがその例です。彼は、科学的知識を基盤としながらも、未知なるものへの探求心や冒険心を刺激する物語を創造しました。この「科学的正確さへの志向」と「大胆な空想」の融合こそが、ヴェルヌ作品、ひいてはサイエンス・フィクションというジャンルの初期のスタイルを確立したと言えます。

まとめ:『月世界旅行』の科学的背景がもたらすもの

ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』は、19世紀後半の確立された天文学・物理学の知識、当時の技術水準、そして宇宙への具体的な構想を背景としています。作品に描かれた砲弾による月旅行計画は、現代の基準から見れば非現実的な側面が多く含まれますが、発表当時の科学技術の文脈に置いて理解することで、その描写が当時の知識に基づいたものである点や、ヴェルヌが科学的課題を認識しつつ物語を構築した過程が見えてきます。

この科学的背景は、作品のリアリティを高め、読者が登場人物たちの壮大な計画に感情移入することを助けました。また、科学技術がもたらす可能性への信頼と、未知への探求心という、19世紀後半の人々が抱いた夢や希望を文学作品として表現することに貢献しています。『月世界旅行』は単なる冒険小説ではなく、科学と人間精神の相互作用を描いた作品として、現在でも多くの読者を魅了し続けています。当時の科学技術への理解は、作品の深層にある時代の精神や人類の探求心をより鮮やかに捉える上で、重要な鍵となります。