ウィリアム・シェイクスピア作品にみるエリザベス朝イングランドの世界観:天動説、四大元素、そして占星術
ウィリアム・シェイクスピアの戯曲や詩は、発表されてから数世紀を経た現代においても世界中で読まれ、上演され続けています。その普遍的な人間の探求や劇的な展開は時代を超えて多くの人々を魅了しますが、作品に織り込まれた当時の歴史、社会、そして人々の世界観や科学観を理解することで、その真価や深層にある意味合いはさらに明らかになります。特に、エリザベス朝イングランドにおいて人々が抱いていた宇宙や人体に関する知識、そして占星術といった考え方は、登場人物の言動、劇のプロット、さらには作品全体のテーマに深く関わっています。
本記事では、シェイクスピア作品の背景にあるエリザベス朝イングランドの主要な世界観や科学的(当時の基準において)な考え方に焦点を当て、それが作品理解にいかに重要であるかを解説します。具体的には、当時の人々が信じていた宇宙の構造である天動説、物質や人体を構成すると考えられていた四大元素説と四体液説、そして人々の運命を左右すると考えられていた占星術を取り上げ、これらの知識がシェイクスピアの文学世界にどのように反映されているかを探ります。
エリザベス朝イングランドの世界観と科学観
エリザベス朝(1558年 - 1603年)は、ヨーロッパにおけるルネサンスの最盛期であり、科学革命の夜明け前でもありました。この時代の人々が共有していた世界に関する認識は、現代の私たちとは大きく異なる部分が多くあります。彼らの宇宙観、自然観、人体観は、主に古代ギリシャ・ローマの哲学や科学、そして中世キリスト教思想が融合した形で継承されていました。
宇宙の構造:プトレマイオス的宇宙観(天動説)
エリザベス朝の人々にとって、宇宙は地球を中心に、同心円状に配列された透明な天球が幾重にも重なった構造であると広く信じられていました。これは、古代ギリシャの天文学者プトレマイオスによって体系化された宇宙モデルに基づいています。
- 地球中心: 静止した地球が宇宙の中心に位置します。
- 惑星の天球: 月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星といった惑星は、それぞれ独立した天球に固定され、地球の周りを回転すると考えられていました。
- 恒星天: 最も外側の天球には無数の恒星が固定されており、この天球全体が回転することで星の動きが生じるとされました。
- プリームム・モビーレ (Primum Mobile): 恒星天のさらに外側にある、宇宙全体を動かす最初の動者とされる天球です。
- エンピリアン (Empyrean): 最も外側に位置する、神や天使たちの領域とされる場所です。
この宇宙モデルは単なる天文学的な見方にとどまらず、宇宙全体が神によって創造され、完璧な秩序と階層構造を持っているという当時の世界観を反映していました。地上界は変化と腐敗の領域であり、天球は不変で完全な領域であるという対比も重要視されていました。
人体と物質:四大元素説と四体液説
古代ギリシャのエンペドクレスが提唱し、アリストテレスが発展させた四大元素説も、エリザベス朝の人々にとって基本的な物質観でした。宇宙のすべての物質は、火、空気、水、土の四つの基本的な元素から構成されていると考えられていました。
また、古代ギリシャの医学者ヒポクラテスに始まり、ガレノスによって体系化された四体液説は、当時の医学や人体観の基盤でした。人体は、血液 (Blood)、粘液 (Phlegm)、黄胆汁 (Yellow Bile)、黒胆汁 (Black Bile) という四つの体液から成り立ち、これらの体液のバランスが個人の気質(temperament)や健康状態を決定すると考えられていました。
- 血液 (Blood): 暖かく湿っており、陽気 (sanguine) な気質と関連。
- 粘液 (Phlegm): 冷たく湿っており、粘液質 (phlegmatic) で穏やかな気質と関連。
- 黄胆汁 (Yellow Bile): 暖かく乾いており、胆汁質 (choleric) で短気な気質と関連。
- 黒胆汁 (Black Bile): 冷たく乾いており、憂鬱質 (melancholic) で物思いにふける気質と関連。
これらの体液の過不足や不均衡が病気や精神的な不調の原因と見なされ、治療は体液のバランスを回復させることに重点が置かれました。
地上の出来事と人間の運命:占星術
天体の運行や配置が地上の出来事や個人の運命に影響を与えるという占星術は、エリザベス朝において広く信じられていました。占星術師は、個人の出生時の星の配置(ホロスコープ)からその人の性格や生涯を予測したり、重要な決断(結婚、旅行、医療行為など)を行うのに適した時期を判断したりしました。占星術は、天文学や医学と密接に関連しており、大学のカリキュラムにも含まれることがありました。自然現象(彗星、日食、月食など)も、不吉な前兆として占星術的に解釈されることがありました。
シェイクスピア作品における世界観と科学観の反映
シェイクスピアの作品は、彼自身の深い人間理解に基づくと同時に、彼が生きた時代の人々が共有していたこれらの世界観や知識を前提として描かれています。登場人物の言動、台詞の比喩、物語の展開には、これらの背景知識が色濃く反映されています。
宇宙の秩序と混乱
プトレマイオス的宇宙観における秩序立った階層構造は、エリザベス朝社会の階級制度や政治的な秩序と重ね合わせて理解されることがありました。宇宙の秩序が乱れることは、社会や国家、さらには個人の精神における混乱や破滅を暗示することがあります。
例えば、『ハムレット』において、主人公ハムレットはデンマーク王国の「時が関節が外れた」("The time is out of joint," Act I, Scene 5)と嘆きます。これは単に世の中がおかしいというだけでなく、宇宙的な、あるいは自然な秩序が崩壊したという当時の宇宙観を踏まえた表現と解釈できます。
また、『トロイラスとクレシダ』のユリシーズの長い台詞には、宇宙の階層的な秩序("degree")が破壊されることの恐ろしさが説かれています。これは、宇宙論的な秩序の破壊が、国家や社会の崩壊に直結するという当時の思想を明確に示しています。
四大元素と四体液による人物描写
シェイクスピアは、登場人物の性格や感情を、四大元素や四体液のバランスに関連付けて描写することがあります。
例えば、『ジュリアス・シーザー』の最後、アントニーは敵であったブルータスを評して「彼の生命の構成は、四つの元素がかくもよく混じり合っていて、自然そのものが立ち上がって全世界に『これこそが一人の人間だった!』と言うであろう」("His life was gentle, and the elements / So mix'd in him that Nature might stand up / And say to all the world 'This was a man!' " Act V, Scene 5)と語ります。これは、ブルータスが四大元素や四体液が完璧な均衡を保った理想的な人物であった、つまり欠点のない人間であったという、当時の人体観に基づく最高の賛辞です。
また、ハムレットの憂鬱な気質や、タイタス・アンドロニカスにみられる激情的な性質は、それぞれ黒胆汁や黄胆汁の優位といった四体液説の観点から理解すると、当時の観客にはより深く共感された可能性が高いでしょう。
占星術と運命
占星術は、劇中の出来事や登場人物の運命を論じる際にしばしば言及されます。人々が天体の影響に左右されるという考えは、運命論的な世界観と結びつきます。
『リア王』において、グロスター伯は、息子エドマンドの企みを知らずに、最近の不幸な出来事は「天体の影響」によるものであり、「父と子の間の愛情が冷め、旧友の間に友情が破れ、国家には反乱が起こる」といった混乱は「この宇宙の異常な変動」によって引き起こされていると語ります(Act I, Scene 2)。この台詞は、当時の占星術的な思考、すなわち天体の不穏な動き(彗星や日食など)が地上の災いと関連づけられるという考えを端的に示しています。
しかし、シェイクスピアは必ずしも占星術を盲目的に肯定するだけでなく、人間の選択や自由意志の重要性も同時に描いています。『リア王』のエドマンドは、父グロスターの台詞を受けて、人間の不幸を星のせいにすることを愚かだと嘲笑し、自らの行動こそが運命を決定すると主張します。これは、占星術が広く信じられていた時代にあって、人間の主体性という新たな視点も示唆していると言えるでしょう。
劇中に登場する彗星、日食、雷雨といった異常な自然現象も、単なる情景描写にとどまらず、当時の占星術的な見方や、宇宙の秩序が乱れていることの象徴として、劇の不穏な雰囲気や今後の展開を暗示する役割を果たしています。
まとめ
ウィリアム・シェイクスピア作品を現代において深く読み解くためには、彼が生きたエリザベス朝イングランドの人々が共有していた世界観、特にプトレマイオス的宇宙観に基づく宇宙の秩序、四大元素説と四体液説に基づく人体・物質観、そして占星術といった考え方を知ることが不可欠です。これらの知識は、単なる時代の背景としてではなく、登場人物の動機や性格、物語の象徴性、劇全体のテーマといった、作品の核心部分と深く結びついています。
天動説が示す宇宙の秩序は、社会や国家の秩序のメタファーとして、混乱や破滅の描写に深みを与えています。四大元素や四体液説は、人物の気質や精神状態を理解する上で手がかりとなり、当時の観客が抱いていた人間観と響き合います。占星術は、運命というテーマに触れる際に登場し、当時の人々の世界に対する認識や迷信の一端を示しつつも、人間の自由意志という問いを投げかける役割も果たしています。
これらの背景知識を学ぶことは、シェイクスピアの作品に新たな光を当て、時代を超えた普遍性に加え、彼が生きた時代の具体的な文脈の中での意味合いをより豊かに理解することにつながります。文学研究における背景知識の探求は、作品世界への扉をさらに開く鍵となるのです。