文学の背景ガイド

メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』に描かれた極地の地理、探検史、そして物語における意味

Tags: フランケンシュタイン, メアリー・シェリー, 極地探検, 地理, 歴史, ロマン主義

導入:物語の始まりと終わりに位置する極地の重要性

メアリー・シェリーの傑作『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』は、単なる怪奇小説としてだけでなく、19世紀初頭の科学、哲学、社会状況を映し出す多層的な作品として読まれています。特に、物語の枠組みをなす探検家ウォルトン船長の手紙、そして主人公ヴィクター・フランケンシュタインと彼が創造した怪物の最後の対決の舞台として描かれる「極地」は、作品世界を理解する上で非常に重要な要素です。

本稿では、『フランケンシュタイン』に描かれた極地の地理的特徴、作品執筆当時の極地探検の歴史と背景、そしてそれが物語の構造やテーマ、登場人物の心理にどのように関わっているのかを詳細に解説します。極地の過酷な環境と探求の歴史を知ることは、ウォルトン船長の野心、ヴィクターの破滅的な探求、そして怪物の孤独な漂流という物語の核心をより深く理解する一助となるでしょう。

背景知識:19世紀初頭の極地探検と地理

『フランケンシュタイン』が発表された1818年は、まさに近代的な極地探検が本格化しようとしていた時期にあたります。物語の語り手であるウォルトン船長が目指す「北極」は、当時のヨーロッパ人にとって「未知」のフロンティアであり、科学的探求、商業的利益、そして国家の威信をかけた目標でした。

1. 極地の地理的理解

19世紀初頭、北極海の地理はまだ十分に解明されていませんでした。大陸に囲まれた氷に閉ざされた海、という認識はありましたが、その正確な形状、海流、気候パターン、そして北極点そのものの様子は推測の域を出ませんでした。特に、ヨーロッパや北米からアジアに至る最短ルートとして期待された「北西航路」や「北東航路」の存在と実現可能性は、多くの探検家を魅了していました。彼らは海図のない海域を進み、厚い海氷や流氷、そして予測不能な気候に常に直面していたのです。

2. 極地探検の歴史と動機

15世紀末以降、ヨーロッパ列強は新世界への航路探索と共に、北極海における航路開拓を目指してきました。16世紀にはウィリアム・バフィン、ヘンリー・ハドソンらが北米北部の湾や海峡を探検しています。18世紀後半にはジェームズ・クックが南氷洋を探検し、南極大陸の存在を示唆しましたが、北極点到達はまだ先の目標でした。

19世紀に入ると、イギリス海軍主導で組織的な極地探検が活発化します。その動機は主に以下の点に集約されます。

ウォルトン船長の手紙からも、これらの動機、特に「磁極」の発見や「新しい航路」の開拓といった科学的・地理的目的、そして「人類にとって初めての場所を訪れる」という栄光への強い渇望が読み取れます。当時の探検は、現代のような技術や情報網がない中で、非常に危険なものでした。壊血病、凍傷、食料不足、船の破損、そして何よりも厚い海氷による閉じ込めは、探検家たちの常に直面する脅威であり、多くの探検隊が失敗や悲劇的な結末を迎えています。ジョン・ロスやウィリアム・パリーといった有名な探検家が活動を始めるのは、『フランケンシュタイン』発表のまさにこの時期です。

3. 当時の科学・哲学思想との関連

19世紀初頭は、科学が急速に発展し、未知なるものへの探求心が掻き立てられた時代です。極地探検は、こうした時代の気運と深く結びついていました。それは単なる物理的な航海ではなく、「世界の果て」や「自然の究極」への挑戦であり、ロマン主義的な冒求精神と科学的実証主義が交錯する場でもありました。ウォルトンの手紙における「未知なる場所」への憧れや、「驚くべき現象」を発見したいという願いは、当時の探検家たちが抱いていたロマンチックな情熱と科学的好奇心の両方を反映しています。

作品との具体的な関連性:極地の地理、探検史が物語に与える意味

『フランケンシュタイン』における極地の描写と、当時の極地探検の背景知識は、作品の様々な側面に深い意味を与えています。

1. 物語の枠組みとしての極地と探検

物語は、北極探検中のウォルトン船長が、凍結した海上で衰弱したヴィクター・フランケンシュタインを救助し、彼からその驚くべき体験談を聞くという構造をとっています。ウォルトンの手紙で始まるこの構成は、作品全体に「探検」という行為が持つテーマを導入します。ウォルトンが極地の「未知」を探求するように、ヴィクターは生命の「未知」を探求したのです。ウォルトンの科学的野心とヴィクターのそれを対比させることで、作品は探求の動機、リスク、そして限界について問いかけています。ウォルトンが最終的に探検を断念する決断を下すことは、ヴィクターの破滅的な結末と対比され、探求における倫理的判断の重要性を示唆しています。

2. 過酷な環境と登場人物の運命

極地の過酷な地理的環境は、ヴィクターと怪物の追跡劇において重要な役割を果たします。氷に閉ざされた広大な荒野は、彼らの絶望的な孤独と追いつめられた状況を視覚的に強調します。自然の圧倒的な力の前で、人間(そして怪物)は無力であり、彼らの個人的な葛藤や復讐心さえも、この壮大な自然の前では矮小なものに見えます。怪物が北極を目指して逃亡するのは、「文明」から最も遠く離れた、自分を受け入れるかもしれない場所を求める行動とも解釈できます。しかし、極地の環境は彼らに安息をもたらすのではなく、さらなる苦痛と孤立を与えるのみです。

3. 象徴としての極地

極地は『フランケンシュタイン』において多層的な象徴として機能しています。

物語のクライマックスが極地で繰り広げられることは、ヴィクターと怪物の関係性が、理性や社会規範が通用しない、原始的で究極的な状態に達したことを示唆しています。二人は世界の果てで互いを追い詰め、そして破滅を迎えるのです。

まとめ:極地理解が深める『フランケンシュタイン』読解

『フランケンシュタイン』に描かれた極地の地理、そして当時の探検史という背景知識は、単なる物語の舞台設定に留まりません。それは、ウォルトンの探求心、ヴィクターの創造と破滅、怪物の孤独な存在といった作品の主要なテーマや登場人物の運命と深く結びついています。

19世紀初頭の極地が「未知」への挑戦の象徴であったこと、そして探検が科学的好奇心とロマン主義的冒求心に突き動かされつつも、自然の力の前で常に危険と隣り合わせであったことを理解することで、ウォルトンとヴィクターの探求が持つ光と影、そしてその破滅的な可能性がより鮮明に見えてきます。また、極地の過酷で隔絶された環境は、怪物とヴィクターが経験する内面的な孤独や絶望を外部環境として表現しており、彼らの心理状態や物語の悲劇性を一層際立たせています。

極地の地理や探検史という視点から『フランケンシュタイン』を読み直すことは、作品に込められた科学と倫理、人間の傲慢さ、自然の力、そして孤独といった普遍的な問いについて、より深い洞察を得ることに繋がるでしょう。