ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』に描かれた19世紀海洋学と潜水技術の背景
ジュール・ヴェルヌの代表作の一つである『海底二万里』(Vingt mille lieues sous les mers)は、巨大潜水艦ノーチラス号による神秘的な海底世界探検を描いた作品です。この作品が発表された1870年は、科学技術が急速に進歩し、未知の世界への探求心が高まっていた時代でした。作品の持つ圧倒的なリアリティと魅力は、単に作者の豊かな想像力によるものだけでなく、当時の最先端科学知識、特に海洋学と潜水技術の発展を背景としています。本稿では、『海底二万里』の舞台裏に存在する19世紀の科学技術的背景を解説し、それが作品理解にどのように貢献するかを考察します。
19世紀における海洋学の黎明
19世紀半ばまで、海洋、特に深海は人類にとってほとんど未知の領域でした。水深数百メートルより深い場所には生物は存在しない、という「アゾア仮説」のような説も信じられていた時代です。しかし、大西洋横断海底ケーブル敷設のための調査や、自然史学者の関心の高まりにより、徐々に海洋の科学的探査が進められるようになります。
特に重要な転換点となったのが、1872年から1876年にかけて行われたイギリスのチャレンジャー号による世界一周海洋探検です。この探検は、それまでの断片的な調査とは異なり、組織的かつ科学的な手法で、水深測定、海底堆積物の採取、海水温・塩分濃度測定、深海生物の採集などを広範囲に実施しました。チャレンジャー号の調査によって、深海にも多様な生物が生息していること、海底地形が多様であることなどが明らかになり、近代海洋学の基礎が築かれました。
『海底二万里』の執筆はチャレンジャー号探検の直前または同時期ですが、ヴェルヌは既に当時の最新の海洋に関する知見や推測を広く収集していたと考えられます。作品中に描かれる多様な深海生物、壮大な海底景観、海流や水深に関する言及は、当時の海洋学が捉え始めていた、あるいは今後明らかになるであろう海洋世界のイメージを反映していると言えます。作品における海洋世界の詳細な描写は、当時の読者にとって単なるフィクションではなく、現実の科学探検がもたらすであろう驚異を先取りしたものとして受け止められた可能性が高いです。
19世紀の潜水技術の進歩とその限界
潜水技術の歴史は古く、紀元前から潜水鐘のような装置が存在しました。しかし、自由に水中を航行する「潜水艦」の概念は、17世紀以降に具体化し始めます。19世紀に入ると、特に軍事的な関心から潜水艇の開発が進みました。初期の潜水艇は、手動でプロペラを回す人力によるものが主流でした。アメリカ南北戦争で使用された南軍の潜水艇「ハンリー」号などがその例ですが、これらは非常に原始的で危険を伴い、実用性には多くの課題がありました。動力、酸素供給、航続距離、深度といった基本的な性能において、当時の技術は非常に限られていたのです。
ヴェルヌが『海底二万里』で描いたノーチラス号は、当時の技術水準をはるかに超えた、まさに未来の潜水艦でした。電気を動力源とし(当時の主要動力は蒸気機関)、海水を分解して酸素を得(電気分解による酸素発生)、驚異的な速度と航続距離、そして潜航深度を誇ります。船体構造、バラストタンクによる浮力調整、潜望鏡、水中銃といった装備も、当時の技術の延長線上にありつつも、その実現度や性能は未来を先取りしたものでした。
ノーチラス号は、当時の潜水技術の「こうあれば素晴らしい」という願望を具現化した存在であり、ヴェルヌの科学的想像力の結晶です。しかし、その描写は単なるファンタジーではなく、当時の物理学や化学の知識(電気、電気分解、圧力など)に基づいた、一見するともっともらしい説明が添えられています。この「ありそうもないが、もしかしたら可能かもしれない」と思わせる絶妙なバランスが、作品にリアリティと説得力を与えているのです。
作品における科学技術の位置づけとテーマ
『海底二万里』において、ノーチラス号とネモ船長の科学技術は物語の中心を担っています。ノーチラス号は単なる乗り物ではなく、それ自体が一つの完結した生態系、あるいは哲学的な空間として描かれています。ネモ船長は、既存の社会から隔絶し、自らの科学的知識とノーチラス号という技術の粋を用いて、独自の生活を営み、海の世界を探求します。
ここで描かれる科学技術は、人類に未知の世界を開放する可能性を示唆すると同時に、その力が持つ危険性をも暗示しています。ネモ船長は抑圧された者への復讐のためにノーチラス号を兵器として使用する場面もあり、科学技術が善にも悪にも利用されうるという、当時の産業革命時代における科学万能主義への期待と不安が作品に反映されていると解釈できます。
読者は、当時最先端であった、あるいはこれから登場するであろう科学技術の描写を通じて、単に冒険譚を楽しむだけでなく、科学の進歩が社会や個人にもたらす影響、そして人間と技術の関係性について深く考える機会を得ます。当時の科学技術的背景を知ることは、ノーチラス号の驚異的な性能が当時の技術水準から見ていかに革命的であったかを理解し、ネモ船長の思想や行動の根底にある時代の空気をより深く感じ取るために不可欠です。
まとめ
ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』は、19世紀後半という科学技術が急速に発展した時代の空気を色濃く反映した作品です。当時の黎明期にあった海洋学の知見、そして開発途上であった潜水技術に関する知識を土台とし、ヴェルヌは想像力を駆使してノーチラス号と海底世界を描き出しました。
19世紀の海洋学と潜水技術の背景を知ることは、ノーチラス号の描写が単なる空想ではなく、当時の科学的文脈の中でいかに大胆かつ説得力を持って描かれているかを理解する助けとなります。また、ネモ船長の孤高な生き方やノーチラス号の使われ方に触れることで、科学技術の進歩が人類にもたらす光と影、そしてその倫理的な側面といった、作品が内包するより深いテーマへの洞察を得ることができます。この時代の科学技術的背景を学ぶことは、『海底二万里』という作品世界をより豊かに、多角的に理解するための重要な鍵となるのです。