H.G.ウェルズ『タイム・マシン』にみる19世紀末の物理学(時間概念)、社会進化論、そして地球の未来
H.G.ウェルズのSF小説『タイム・マシン』(原題:The Time Machine)は、1895年に発表された古典的名作です。主人公であるタイムトラベラーが自作の機械で未来へ旅し、遠い未来の人類(エロイとモーロック)の姿や、さらに遠い未来の地球の終末を目撃する物語は、多くの読者に強い印象を与えてきました。単なる冒険譚に留まらず、本作は当時の科学的知見や社会思想を色濃く反映しており、それらの背景知識を理解することで、作品の深層にあるメッセージやウェルズが抱いていた文明への問いをより深く読み解くことが可能になります。
本稿では、『タイム・マシン』の舞台となった19世紀末における物理学の時間概念、当時の主要な社会思想であった社会進化論、そして地球の未来に関する科学的予測といった背景知識に焦点を当て、これらが作品の描写やテーマにいかに結びついているかを解説します。
19世紀末における時間概念と時間旅行の萌芽
『タイム・マシン』の根幹をなすアイデアは「時間旅行」です。現代ではSFの定番とも言えるこの概念ですが、19世紀末においてこれは決して自明なものではありませんでした。ニュートン力学の世界観では、時間は宇宙全体にわたって均一かつ絶対的なものと見なされており、空間とは切り離された一次元の流れであると考えられていました。時間の流れは一定であり、過去に戻ったり未来へ進んだりすることは物理的に不可能であるという認識が一般的でした。
しかし、19世紀後半には、物理学や哲学の分野で時間に対する新たな考察が始まりつつありました。マクスウェルによる電磁気学の発展は、光の速度という普遍的な定数の存在を示唆し、アインシュタインの相対性理論へと繋がる地ならしをしました。相対性理論は、時間と空間が分離できない「時空」として一体であり、観測者の運動状態によって時間の進み方が異なることを示しましたが、これはウェルズの時代にはまだ登場していません。しかし、哲学者や数学者の間では、時間は単なる流れではなく、空間と同じように複数の次元を持つ実体として捉え直す思考が現れていました。例えば、チャールズ・ハワード・ヒントンは1880年代に「四次元空間」の概念を探求しており、ウェルズも彼の著作に影響を受けたとされています。
ウェルズは、このような当時の知的な探求の空気の中から、「時間は第四の次元である」というアイデアを着想し、それを物語の物理的基盤として据えました。作品冒頭でタイムトラベラーが解説するように、長さ、幅、厚さに加えて時間が存在するならば、空間を移動するように時間も移動できるはずだ、という論理を展開します。これは、当時の一般的な時間観念に挑戦し、後の物理学における時空概念をある意味で先取りするような、斬新な発想でした。作品における時間旅行は、単なる奇抜な仕掛けではなく、当時の最先端の科学的・哲学的思考を踏まえた上で提示された可能性だったのです。
社会進化論とエロイ、モーロックの世界
『タイム・マシン』の未来世界、特に西暦80万2701年の地球に住む人類の子孫であるエロイとモーロックの描写は、当時のイギリス社会で大きな影響力を持っていた「社会進化論」を色濃く反映しています。社会進化論は、チャールズ・ダーウィンの生物進化論における「適者生存」の概念を、人間社会や国家の発展に適用しようとする思想です。代表的な提唱者であるハーバート・スペンサーは、「進化」を単純なものから複雑なものへの移行と捉え、社会もまた競争を通じてより高度な段階へと進化していくと主張しました。
しかし、社会進化論はしばしば、当時の産業革命によって生じた深刻な社会階級の分化や格差を正当化するために利用されました。富裕層や支配階級は自らを「適者」とし、貧困層や労働者階級は「不適者」として淘汰されるべきである、あるいは彼らの劣悪な境遇は進化の過程で当然のことであると見なす見方が生まれました。ウェルズが生きたヴィクトリア朝後期のイギリスは、産業資本主義が頂点に達し、富の集中と労働者階級の困窮が顕著な時代でした。ロンドンは光輝く富裕層の居住区と、暗く貧しい労働者のスラムに二分されていました。
『タイム・マシン』におけるエロイとモーロックは、この当時の社会階級の極端な未来像として描かれています。地上で楽園のような生活を送るエロイは、かつての支配階級の子孫が肉体的、精神的に退化した姿です。彼らは労働から完全に解放され、芸術や享楽にふけるのみで、知識も好奇心も失っています。一方、地下深くに住むモーロックは、かつての労働者階級の子孫であり、暗闇で機械を扱い、エロイを食料とする恐ろしい存在へと変貌しています。これは、資本家階級と労働者階級の間に生じた労働の分業が、何世代にもわたって固定化され、最終的に生物的な種分化のような状態に至るという、社会進化論的な視点(あるいはその悲観的な応用)に基づいた描写と解釈できます。ウェルズは、社会進化論が暗示する無制限の競争と階級固定化の未来が、人類を分断し、破滅的な退化へと導く可能性を示唆しているのです。これは、単に未来を予測するだけでなく、当時の社会構造とそこに内在する危険性に対するウェルズの鋭い批判であったと言えるでしょう。
地球の終末と宇宙論、地質学
タイムトラベラーは、さらに数百万年、数千万年先の未来へと旅を続けます。そこで彼が見るのは、太陽が赤く膨張し、地球が寒冷化し、生物がほとんど絶滅した静止した世界です。この描写は、19世紀末における地質学や天文学の知見、特に熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)が示唆する宇宙の終末像を反映していると考えられます。
19世紀には、地球の年齢が従来の想像よりもはるかに長いことが地質学的に明らかになってきました。ライエルなどの地質学者は、堆積や侵食といった緩慢なプロセスが長い時間をかけて地球の景観を形成してきたことを示し、地球の歴史が壮大な時間スケールで進行していることを示しました。また、天文学では、太陽や他の恒星が有限の寿命を持つエネルギー体であることが認識され始めていました。熱力学の第二法則は、閉じた系においては無秩序さ(エントロピー)が増大し、最終的にはエネルギーが均一に拡散して、もはや利用可能なエネルギーが存在しない状態(熱的死)に至ることを示唆しています。これを宇宙全体に適用すれば、宇宙はやがて「熱的死」を迎えるという終末論的な見方も可能でした。
ウェルズが描く遠未来の地球は、まさにこのような科学的終末論を具現化したかのようです。太陽は衰退し、地球は生命の活動を停止した不毛の惑星と化しています。これは、生物進化論が「進歩」を必然とする楽観的な見方に対して、宇宙全体を支配する物理法則が示す不可避的な衰退や終滅の可能性を対置させたものと解釈できます。人類の進化(あるいは退化)が、宇宙全体の物理的な終末という、さらに巨大な時間スケールの中で起きている出来事であることを示し、人間の存在の限界や儚さを突きつけていると言えるでしょう。タイムトラベラーが目にするのは、単なる地球の物理的な終末だけでなく、そこに生命が存在しなくなったことによる根源的な孤独と虚無感です。
まとめ
H.G.ウェルズの『タイム・マシン』は、単に時間を超える乗り物を描いた空想科学小説ではありません。19世紀末という時代の科学的・思想的背景、すなわち物理学における時間概念への新たな問い、社会進化論の隆盛とその社会への影響、そして地質学や宇宙論が明らかにしつつあった地球と宇宙の壮大な時間スケールと終末の可能性といった知識が、作品の描写やテーマの隅々にまで深く織り込まれています。
時間旅行というアイデアは、当時の時間に対する最先端の思考から生まれ、未来社会の描写は、社会進化論を当時の社会問題と結びつけて批判的に考察した結果です。そして、地球の終末の描写は、物理学や地質学が示唆する宇宙の避けがたい運命を反映しています。
これらの背景知識を知ることで、読者はエロイやモーロックの退化が単なる奇妙な生物ではなく、当時の社会構造への批判的な視点から生まれたものであること、タイムトラベラーが見る地球の終末が当時の科学が提示した悲観的な未来像に基づいていることなど、作品の多層的な意味合いをより深く理解することができます。
『タイム・マシン』は、科学技術の進歩が必ずしも人類の幸福や進歩に繋がるわけではないというウェルズの問題意識、そして時間や進化、文明の未来に対する根源的な問いを私たちに投げかけています。作品を読む際には、ぜひ当時の科学や社会思想にも目を向け、ウェルズが描こうとした世界の奥行きを感じ取ってみてください。それは、現代社会が抱える課題や、科学技術の進歩と人類の未来について考える上でも、示唆に富む経験となるはずです。