H.G.ウェルズ『モロー博士の島』にみる19世紀末の生物学、進化論、そしてヴィヴィセクション論争
はじめに:『モロー博士の島』と科学・倫理の問い
H.G.ウェルズの科学ロマンス(現代でいうSF小説)『モロー博士の島』(The Island of Doctor Moreau, 1896年)は、絶海の孤島で行われるおぞましい生体実験とその産物である獣人たちの存在を描き、読者に深い衝撃を与える作品です。漂着した主人公プレンディックは、この島を支配するモロー博士が、動物に外科手術を施し、人間の形と知性を与えようとする試み、すなわち獣人を創造している事実を知ります。
この作品が描く恐怖と倫理的な問いは、単なる空想の産物ではなく、ウェルズが生きた19世紀末イギリスにおける科学の急速な進展、特に生物学分野の発見、そしてそれに伴う倫理的な議論を色濃く反映しています。この記事では、『モロー博士の島』をより深く理解するために不可欠な、当時の生物学の状況、進化論の影響、そして激しいヴィヴィセクション(生体解剖)論争という三つの背景知識について解説し、それらが作品世界にいかに組み込まれているのかを考察します。
19世紀末の生物学と進化論の影響
19世紀後半は、生物学が目覚ましい発展を遂げた時代です。細胞説の確立、微生物学の勃興、そして何よりもチャールズ・ダーウィンによる進化論の提示が、生命観や人間観に根本的な変革をもたらしました。
ダーウィンの『種の起源』(1859年)は、生物種が固定されたものではなく、自然選択によって時間とともに変化し、共通の祖先から分岐してきたとする考え方を提示しました。これは、それまでの静的で目的論的な生物観を覆すものでした。特に、人間もまた動物界の一員であり、他の動物と共通の祖先を持つ可能性を示唆したことは、当時の社会に大きな衝撃と反発をもたらしました。
ウェルズが『モロー博士の島』を執筆した1890年代は、ダーウィン進化論が広く受容されつつありましたが、その含意するところ、特に人間と動物の境界、種の可塑性といった概念は、科学者や思想家たちの間で活発な議論の的となっていました。モロー博士が行う「手術」は、まさにこの「種の壁」を人為的に操作し、動物を人間に近づけようとする試みであり、当時の進化論的な思考実験を極端な形で小説化したものと見なすことができます。
ヴィヴィセクション論争の背景と作品への反映
当時のイギリス社会において、科学研究の方法論を巡って最も激しい倫争の一つとなっていたのが、ヴィヴィセクション、すなわち生きた動物を使った解剖実験の是非でした。生理学や医学の発展にはヴィヴィセクションが不可欠であると主張する科学者たちがいた一方で、動物愛護の観点や宗教的・倫理的な理由から、これに強く反対する人々、特に反ヴィヴィセクション運動家が多数存在しました。
1876年には、イギリスで動物実験を規制するための「動物に対する残虐防止法改正法」(Cruelty to Animals Act 1876)が制定されるほど、ヴィヴィセクションは社会的な関心事でした。この法律は、動物実験にライセンス制を導入するなど、一定の規制を設けるものでしたが、論争自体はその後も続きました。
『モロー博士の島』におけるモロー博士の実験は、このヴィヴィセクションを極限まで推し進めたものです。動物を生きたままメスで解体し、形を変え、苦痛を与え続けるモロー博士の行為は、当時の反ヴィヴィセクション運動家が批判した残虐な動物実験のイメージと重なります。主人公プレンディックがモロー博士の実験を見て感じるおぞましさや倫理的な嫌悪感は、当時の一般の人々、特にヴィヴィセクションに反対する立場の人々が抱いていた感情を反映していると考えられます。モロー博士が自身の研究を「苦痛は重要ではない」と正当化するさまは、科学の進歩のためなら倫理的な制約を乗り越えるべきだと主張する一部の科学者の声の歪んだ模倣とも解釈できます。
島という地理的設定も重要です。社会から隔絶された孤島であるからこそ、モロー博士は社会的な規範や法律、倫理的な批判から逃れて、自らの飽くなき好奇心を満たすための実験を続けられます。これは、科学研究が倫理的な規制を受けない「治外法権」的な領域に踏み込むことの危険性を示唆していると言えるでしょう。
作品における背景知識の統合:獣人たちの意味
モロー博士が生み出した獣人たちは、進化論とヴィヴィセクション論争という二つの背景が融合した存在です。彼らは、動物から人間への「進化」を外科的な手段によって強制的に行われた結果であり、その存在自体がダーウィンの提起した生物の可塑性という概念に基づいています。しかし、その創造過程は当時のヴィヴィセクション論争で問題視された残虐極まりない動物実験によっています。
獣人たちが守る「掟」は、人間社会の法や道徳律を模倣したものです。「人間のように歩くな」「肉を食うな」といった戒めは、彼らがかつて動物であったことの痕跡を消し去り、人間らしさを内面化させようとする試みです。しかし、獣人たちはしばしばその「掟」を破り、動物的な本能に引きずられます。これは、人間性や文明がいかに脆弱な基盤の上に成り立っているのか、そして動物的な野蛮さが常に人間の内面に潜んでいるのではないか、というウェルズの問題提起を象徴しています。進化論が人間と動物の境界を曖昧にした時代において、ウェルズは『モロー博士の島』を通じて、「人間らしさ」とは何か、それは固定されたものなのか、それとも外部からの力(教育、社会規範、あるいは手術)によって形成される脆いものなのか、という問いを投げかけているのです。
まとめ:背景知識から読み解く『モロー博士の島』
H.G.ウェルズの『モロー博士の島』は、19世紀末の生物学、特にダーウィン進化論とその倫理的な波紋、そしてヴィヴィセクション論争という具体的な科学史・社会史的背景なくしては、その真の恐ろしさや深遠なテーマを十分に理解することはできません。モロー博士の孤島での実験は、当時の科学が進歩と共に直面した倫理的なジレンマ、すなわち知識や技術の追求が、生命の尊厳や既存の倫理観をどこまで踏み越えて良いのかという問いを、極めて挑発的な形で提示しています。
当時の生物学や科学倫理を巡る議論を理解することで、獣人たちの悲哀やモロー博士の狂気の根源、そして主人公プレンディックの感じる恐怖が、単なるフィクション上の設定に留まらず、当時の人々が共有していた知的な不安や倫理的な葛藤と深く繋がっていることが見えてきます。このように背景知識を参照することは、『モロー博士の島』が描く人間性、科学倫理、文明と野蛮といった普遍的なテーマを、より歴史的・社会的な文脈の中で捉え直し、作品の多層的な意味を読み解くための重要な手がかりとなるのです。