文学の背景ガイド

メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』に描かれた19世紀初頭の生命科学とロマン主義思想

Tags: フランケンシュタイン, メアリー・シェリー, ロマン主義, 科学史, 思想史, 文学背景, ガルヴァーニズム, 生気論

はじめに

メアリー・シェリーの長編小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein; or, The Modern Prometheus)は、しばしばゴシック小説や初期のサイエンス・フィクションとして分類されます。しかし、この作品が発表された1818年当時の科学的知見や思想的潮流を理解することで、物語の登場人物の動機、怪物の苦悩、そして作品全体が投げかける根源的な問いかけをより深く読み解くことが可能となります。

本記事では、『フランケンシュタイン』が生まれた19世紀初頭のヨーロッパにおける生命科学の探求と、当時の支配的な思想であったロマン主義に焦点を当て、これらの背景知識が作品にいかに反映されているかを解説します。特に、ヴィクター・フランケンシュタインが生命創造という禁断の領域に踏み込んだ科学的・思想的原動力と、創造された存在である怪物の悲劇が、当時の知見や思想とどのように結びついているのかを考察します。

19世紀初頭の生命科学と「ガルヴァーニズム」

『フランケンシュタイン』執筆当時、ヨーロッパでは生命の本質に対する科学的な探求が活発に行われていました。特に注目されていたのが、生物における電気の役割に関する研究です。

イタリアの医師ルイージ・ガルヴァーニは、死んだカエルの足が電極を繋ぐと痙攣するという実験を1780年代に行いました。彼はこれを生物固有の電気、「動物電気」によるものと考え、この現象は「ガルヴァーニズム」として広く知られるようになりました。これは、生命体が単なる機械的な存在ではなく、電気のような未知の力によって動かされているのではないかという考えを強めるものでした。

ガルヴァーニズムは、死体や生物の組織に電気刺激を与えることで動きを引き出す可能性を示唆し、「生命は電気によって吹き込まれるのではないか」という想像力をかき立てました。実際、19世紀初頭には、動物の死体を使った公開実験なども行われており、観衆に強い衝撃を与えていました。これらの実験は、生命と非生命の境界、あるいは死と生の間にある曖昧さへの関心を高めることになりました。

また、当時の生命観としては、生気論(Vitalism)が依然として有力でした。これは、生命現象は物理化学的な法則だけでは説明できない特別な力、すなわち「生気(élan vital)」によって成り立っているという考え方です。一方、機械論(Mechanism)は、生命体も物理化学的な法則に従う機械であると捉えていました。ヴィクター・フランケンシュタインが生命を人工的に創造しようとする試みは、これらの生命論争の中で、特に機械論的なアプローチと、ガルヴァーニズムによる生気付与の可能性を結びつけたものと解釈することができます。

ロマン主義思想とその影響

『フランケンシュタイン』が書かれた時期は、ヨーロッパにおいてロマン主義が隆盛を極めていた時代です。ロマン主義は、18世紀の啓蒙主義における理性や秩序、普遍性への偏重に対する反動として現れました。感情、想像力、直感、個人の内面、自然の神秘性、超越的なものへの憧れなどを重視するのが特徴です。

ロマン主義は文学や芸術に大きな影響を与え、個人の天才的な創造性や、社会から隔絶された孤独な英雄像などを描く作品が多く生まれました。また、自然を単なる客体ではなく、生命力にあふれた神秘的な存在として捉え、畏敬の念を抱く姿勢も特徴的です。

『フランケンシュタイン』の主人公ヴィクターは、ロマン主義的な性格を色濃く持っています。彼は強烈な知的好奇心と、生命創造という偉大な偉業を成し遂げたいという強烈な野心に取り憑かれています。これは、ロマン主義が称揚する個人の天才性や、不可能を可能にしようとする創造者(例えば、神話上のプロメテウス)への憧れに通じます。彼の研究への没頭や、その後の孤独と苦悩も、ロマン主義文学で好まれたテーマです。

また、怪物が社会から追放され、孤独の中で苦悩する姿は、ロマン主義における「アウトサイダー」や「追放された者」というテーマと深く結びついています。社会の偏見や拒絶によって怪物は人間性を失い、復讐心に駆られていきます。これは、社会との調和よりも個人の感情や運命を描くロマン主義の傾向を示しています。

ゴシック文学の要素(古城、嵐の夜、死体、超常的な出来事など)も作品に登場しますが、これはロマン主義の一部として流行していたものです。暗く神秘的な雰囲気は、当時の科学的探求の倫理的側面や、人間の制御を超えた力がもたらす恐怖を表現するのに効果的でした。

作品における背景知識の関連性

ヴィクターの創造行為: ヴィクターが生命創造に挑む動機は、単なる知的好奇心だけでなく、ロマン主義的な「偉大なる創造者」への憧れと、ガルヴァーニズムに示唆された電気による生命付与の可能性が結びついた結果と見ることができます。彼は自然の深遠な秘密を探り当て、生命という最も神秘的なものを人工的に操ろうとします。これは、啓蒙主義的な合理性と、ロマン主義的な超越への志向が混じり合った試みと言えるでしょう。彼は死体の寄せ集めに生命を与えますが、これは当時の解剖学の進歩と、ガルヴァーニズムの実験がリアリティを与えた描写です。

怪物の悲劇: 創造された怪物が経験する悲劇は、ロマン主義の孤独と社会からの排除というテーマを体現しています。当初、怪物には悪意はなく、自然や人間社会について学びたいと願いますが、その異形ゆえに徹底的に拒絶されます。彼の苦悩は、理性的な社会(啓蒙主義の理想)がいかに異質なものを排除し、感情的な反応(ロマン主義的な内面)を傷つけるかを示しています。怪物が読む書物(プルタルコス『対比列伝』、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、ミルトン『失楽園』)もまた、ロマン主義的なテーマ(英雄、感情、追放)と深く関連しています。

プロメテウスのメタファー: 作品の副題「あるいは現代のプロメテウス」は、ギリシャ神話で人間に火を与え、神に罰せられた巨人プロメテウスをヴィクターになぞらえています。プロメテウスは創造者であり、神の領域に干渉した者です。ヴィクターもまた、生命創造という神の領域に踏み込み、その結果として破滅的な結末を迎えます。これは、当時の科学技術の進歩がもたらす可能性と同時に、人間の傲慢さや自然の摂理への介入に対する警告として機能しています。ロマン主義はしばしば神話や伝説を再解釈しましたが、この副題もその一例と言えます。

まとめ

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』は、単なるフィクションとしてだけでなく、19世紀初頭という特定の時代の科学、思想、社会状況を色濃く反映した作品です。ガルヴァーニズムをはじめとする当時の生命科学の知見は、ヴィクターが生命創造というアイデアに至る科学的な「リアリティ」を提供し、物語の核心を形成しました。また、ロマン主義思想は、ヴィクターの野心、怪物の孤独、そして作品全体の根底にある人間性、創造者の責任、自然への畏敬といったテーマに深い影響を与えています。

これらの背景知識を理解することで、読者はヴィクターがなぜあれほどの情熱を持って研究に没頭したのか、怪物がなぜあれほど深く苦悩し、そして凶暴化したのか、そして作品全体がなぜ科学の可能性と危険性、人間の倫理を問う普遍的な問いを投げかけているのかを、より多角的に捉えることができるでしょう。『フランケンシュタイン』は、当時の最先端の知見と時代の精神が融合して生まれた、文学史においても科学史・思想史においても重要な作品であると言えます。