エミリー・ブロンテ『嵐が丘』の地理的・社会史的背景
はじめに:『嵐が丘』と背景知識の重要性
エミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』(Wuthering Heights)は、発表以来、その激しい愛憎劇と独特な雰囲気で多くの読者を魅了してきました。この作品の舞台は、19世紀初頭のイングランド北部、ヨークシャー地方の荒涼とした僻地です。物語を深く理解するためには、単に登場人物の心理や関係性を追うだけでなく、彼らが生きる時代の地理的環境と社会構造を把握することが不可欠です。
本稿では、『嵐が丘』の舞台となるヨークシャーの荒野が持つ地理的特徴と、当時のイギリス農村部における社会史的背景に焦点を当てて解説します。これらの背景知識が、作品の登場人物の性格形成、物語の展開、そして主題の提示にどのように影響を与えているのかを考察し、読者の作品理解の一助となることを目指します。
ヨークシャーの荒野:地理的特徴とその影響
『嵐が丘』の物語が展開される主な舞台は、ウェスト・ヨークシャーの荒涼としたムーア(moor)、すなわち荒野です。作中に登場する「嵐が丘屋敷(Wuthering Heights)」と「スラッシュクロス館(Thrushcross Grange)」は、この荒野の中に孤立して存在しています。
自然環境
ヨークシャーのムーアは、ペニン山脈の東斜面に広がる広大な丘陵地帯であり、年間を通じて風が強く、気候は厳しいことで知られています。土壌は酸性が強く、ヒース(heath)と呼ばれるツツジ科の低木などが広範囲にわたって自生しています。樹木は少なく、見渡す限り荒涼とした風景が広がっています。霧が発生しやすく、天候が急変することも珍しくありません。このような環境は、外界から隔絶された閉鎖的な世界を形成しています。
地理が作品に与える影響
この地理的環境は、作品の雰囲気に決定的な影響を与えています。荒野の厳しさ、孤独感、予測不能な天候は、登場人物たちの激しく荒々しい感情や、彼らの間に巻き起こる嵐のような出来事を象徴しているかのようです。嵐が丘屋敷がこの荒野の中に建ち、常に風にさらされている描写は、そこで暮らす人々の気質や運命を示唆しています。
また、外界からの隔絶は、物語が描く人間関係を非常に閉鎖的で内向的なものにしています。狭い世界の中で同じ人々が繰り返し出会い、代々の因縁が引き継がれる構造は、この地理的制約と深く結びついています。スラッシュクロス館が、比較的谷間に位置し、より穏やかで洗練された生活が営まれている様子は、荒野に立つ嵐が丘屋敷との地理的な対比として描かれ、それぞれの住人の性質の違いを際立たせています。
19世紀初頭イギリス農村部の社会史的背景
『嵐が丘』の主要な舞台設定は19世紀初頭ですが、作品は物語の進行とともに時代を跨ぎ、18世紀末から19世紀半ばにかけての期間を描いています。この時代のイギリス農村部、特に北部地域は、産業革命が急速に進展する都市部とは異なる独自の社会構造を持っていました。
社会階級と生活
当時の農村社会は、依然として土地所有に基づく階級制度が根強く残っていました。作中に登場するアーンショウ家やリントン家は、地方の郷紳(gentry)あるいは比較的裕福なヨーマン(yeoman:独立自営農民)といった層に属すると考えられます。彼らは広大な土地と家屋を所有し、地域社会において一定の地位を保っていましたが、貴族階級ほどではない、地方に根差した生活を送っていました。
物語において重要な要素となるヒースクリフの出自は不明瞭であり、彼は「連れて来られた孤児」として、社会階級の外に置かれています。当時の社会において、出自は個人の社会的位置を決定する上で非常に重要であり、ヒースクリフが経験する差別や困難は、この時代の厳しい階級意識を反映しています。彼が後に財産を築き、社会的地位を得ようとする野心は、当時の社会構造の中で自身の地位を確立しようとする試みとして理解できます。
婚姻と相続
当時の社会、特に有産階級の間では、婚姻はしばしば家と家を結びつけ、財産を維持・拡大するための手段でした。キャサリンが身分違いのヒースクリフではなく、裕福なエドガー・リントンと結婚することを選んだのは、彼女の個人的な感情だけでなく、当時の社会的な慣習や期待が強く影響していると考えられます。「嵐が丘屋敷」と「スラッシュクロス館」という異なる背景を持つ二つの家系の婚姻関係や相続をめぐる争いは、当時の財産法や家族制度、特に女性の財産権の制約といった社会的な側面を浮き彫りにしています。相続は嫡子相続制が基本であり、特に男子の相続が重視される傾向にありました。
教育と文化
当時の農村部における教育の機会は限られていました。特に女性や下層階級の人々にとっては、十分な教育を受けることが困難でした。スラッシュクロス館のリントン家の人々がより洗練された教育を受けているのに対し、嵐が丘屋敷の人々(特にヒースクリフや少年時代のキャサリン、ハーレトン)は、より粗野で感情に忠実な振る舞いをすることが多いのは、育った環境や受けた教育の違いを反映している可能性があります。これは、当時の社会における文化的な差異や階級による教育格差を示唆しています。
作品との具体的な関連性
上で解説した地理的・社会史的背景は、『嵐が丘』の登場人物の心理、行動、そしてプロットの根幹に深く関わっています。
- キャサリンとヒースクリフの関係: 彼らの間に横たわる障害は、単なる性格の不一致だけでなく、ヒースクリフの低い出自という社会的な壁が大きく作用しています。キャサリンがエドガーを選んだ理由を「リントン夫人になることは、私をレディにすることだ」と語る描写は、当時の結婚が個人の感情だけでなく、社会的な地位の向上と結びついていた現実を示しています。
- ヒースクリフの復讐: ヒースクリフが財産を奪い、アーンショウ家とリントン家を破滅させようとする執念深い復讐劇は、彼が経験した身分による差別と、当時の財産・相続に関する社会制度を利用して行われます。彼は当時の法律や慣習の抜け穴を突き、合法的な手段で相手を追い詰めていくのです。
- 荒野の象徴性: ヨークシャーの荒野は、単なる風景描写に留まらず、登場人物たちの内面や、社会の規範から外れた激しい情念の奔放さ、あるいは逃れられない運命を象徴しています。嵐が丘屋敷とスラッシュクロス館の対比は、自然と文明、野生と飼育、情熱と理性といった二項対立を表しており、作品のテーマ性を深めています。
- 世代を超えた因縁: 作品が二世代にわたって描かれるのは、単に物語を長くするためだけでなく、特定の地理的・社会的な環境が、そこで生まれ育つ人々の運命や関係性に世代を超えて影響を与え続ける様子を描くためであると言えます。
まとめ:背景知識が拓く『嵐が丘』理解
エミリー・ブロンテの『嵐が丘』は、激しい愛憎と人間の暗部を描いた作品として知られていますが、その物語の深層には、舞台となったヨークシャーの厳しい自然環境と、19世紀初頭イギリス農村部特有の社会構造が不可欠な要素として織り込まれています。荒野の地理的特徴は、登場人物たちの内面的な嵐や外界からの孤立を象徴し、当時の社会階級、婚姻制度、相続に関する慣習は、登場人物たちの選択や行動、そして物語の悲劇的な展開に直接的な影響を与えています。
これらの地理的・社会史的背景を理解することは、単に時代考証として興味深いだけでなく、登場人物たちの動機や苦悩の根源をより深く洞察し、作品が描く普遍的なテーマ(愛、復讐、階級、人間性など)を多角的に捉えることを可能にします。『嵐が丘』を読む際には、ぜひ物語の背後にある広大な荒野と、そこに根差した人々の社会構造に思いを馳せてみてください。そうすることで、作品の持つ重層的な魅力がさらに明らかになるでしょう。